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弘仁寺歴代録

開祖 滅年(和暦) (西暦) 滅日 備 考
開祖 空海          
二世 啓道 承和四年 (837年) 10月8日寂 97歳  
三世 洞泉 仁寿三年 (853年) 6月7日寂    
四世 道澄 貞観十年 (868年) 2月6日寂    
五世 観龍 昌泰元年 (898年) 4月2日寂    
六世 澄真 承平元年 (931年) 5月7日寂    
七世 啓山 天歴三年 (949年) 6月5日寂    
八世 澄観 康保二年 (965年) 9月19日寂    
九世 覚洞 天元二年 (979年) 7月8日寂 92歳  
十世 洞仙 寛弘元年 (1004年) 3月9日寂    
十一世 澄元 寛仁三年 (1019年) 4月11日寂    
十二世 法運 長歴二年 (1038年) 8月2日寂    
十三世 観理 天喜元年 (1053年) 12月1日寂    
十四世 運仙 延久元年 (1069年) 10月7日寂    
十五世 道仙 承徳元年 (1097年) 9月11日寂    
十六世 智山 大治二年 (1127年) 5月4日寂 91歳  
十七世 慈光 仁平三年 (1153年) 8月7日寂    
十八世 浄眼 仁安元年 (1166年) 5月9日寂    
十九世 光善 養和二年 (1182年) 4月18日寂 97歳  
二十世 智禅 建歴二年 (1212年) 6月4日寂    
二十一世 泰善 嘉禄二年 (1226年) 3月2日寂    
二十二世 秀善 文治三年 (1242年) 1月9日寂    
二十三世 實如 康元元年 (1256年) 9月8日寂    
二十四世 覚禅 文永七年 (1270年) 8月9日寂    
二十五世 宥栄 弘安三年 (1280年) 8月2日寂    
二十六世 甚照 正安二年 (1300年) 3月4日寂    
二十七世 英山 嘉歴三年 (1328年) 7月21日寂    
二十八世 證戒 延文二年 (1357年) 5月24日寂    
二十九世 見照 明徳三年 (1392年) 2月8日寂    
三十世 弘道 応永二十九年 (1422年) 12月21日寂    
三十一世 賢亮 嘉吉元年 (1441年) 10月6日寂    
三十二世 良秀 寛正二年 (1461年) 2月3日寂    
三十三世 真賢 文明十二年 (1480年) 9月9日寂    
三十四世 賢澄 永正元年 (1504年) 8月19日寂    
三十五世 良叡 天文二年 (1533年) 7月11日寂    
三十六世 快誉 永禄元年 (1558年) 4月18日寂    
三十七世 良弁 天正十五年 (1587年) 7月21日寂    
三十八世 真応 慶長十七年 (1612年) 7月3日寂    
三十九世 良慶 寛永十六年 (1611年) 8月2日寂    
四十世 良秀 慶安元年 (1648年) 5月3日寂    
四十一世 弁英 寛文三年 (1663年) 5月23日寂    
四十二世 弘応 延宝二年 (1674年) 11月1日寂    
四十三世 善応 延宝七年 (1679年) 1月21日寂    
四十四世 秀応 天和元年 (1681年) 11月20日寂    
四十五世 弁宥 元禄十一年 (1698年) 11月5日寂    
四十六世 宥応 元禄十六年 (1703年) 9月9日寂    
四十七世 弁空 宝永三年 (1706年) 10月8日寂    
四十八世 秀永 享保十五年 (1730年) 6月26日寂    
四十九世 弁融 延享四年 (1747年) 12月15日寂    
五十世 伝空 宝暦七年 (1757年) 4月2日寂    
五十一世 憲澄 明和八年 (1771年) 2月1日寂    
五十二世 融観 寛政三年 (1791年) 6月23日寂 83歳  
五十三世 甚亮 寛政十年 (1798年) 4月12日寂 71歳  
五十四世 鑁阿 文化二年 (1805年) 12月20日寂    
五十五世 慶応 文化八年 (1811年) 1月4日寂    
五十六世 日隆 文政十四年 (1831年) 2月27日寂    
五十七世 日勝          
五十八世 弁盛 嘉永七年 (1854年) 8月18日寂    
五十九世 日如 安政四年 (1857年) 10月22日寂    
六十世 萬隆 文久二年 (1862年) 5月1日寂    
六十一世 日道 明治二年 (1869年) 12月14日寂    
六十二世 弁空 明治十三年 (1880年) 2月24日寂    
六十三世 日幡 明治十八年 (1885年) 4月20日寂    
六十四世 日央 明治三十六年 (1903年) 4月16日寂    
六十五世 日政 明治三十八年 (1905年) 3月17日寂    
六十六世 敞道 昭和四十年 (1965年) 2月11日寂 94歳  
六十七世 敞隆 昭和六十年 (1985年) 12月5日寂 82歳  
六十八世 敞舜 平成十七年 (2005年) 1月12日寂 67歳  
六十九世 敞啓 現住職        

 

歴代録詳細

8世 澄観

資法二人、澄海と円空である。澄海は禅長寺と遍照坊を開基し、円空は延命院と極楽寺(今は蓮葉坊という)を開基した。共に62代村上帝天徳三年(959年)である。
禅長寺には寛永7年(1630年)9月18日の内藤治部右衛門印形の書がある。当寺の大師堂須弥壇は唐木の霊木である。天和年中(1681~1684年)に造立。
永仁6年(1298年)二月、毘沙門堂に為兼郷卿の文字鎖の和歌がある。為兼卿は嘉元元年(1303年)帰京。

10世 洞仙

資法は二人、澄元と覚法である。澄元は不動院と宝蔵坊を開基した。覚法は林光坊、林照坊を開基した。共に66代一条帝寛弘8年(1011年)の事である。
澄元、始めは高野山や南都の学問所で学び、唯識を兼学した。この僧、常に春日神社に詣でて、増学を祈っていた。後に帰国し、この所(赤泊)に庵を結び、不動の霊像を得て、願い事の為に一千座の護摩を修した。深夜に老翁が現れ、修法を手伝ってくれた。澄元が「あなたは誰か」と聞くと、翁は「唯識の護神である。ここに来て法を護り、願い事を助けるのだ」と、言い終わっていなくなった。澄元、不思議な事だと驚き、かつ拝んで、後で宮社を造営し、神降山不動院と名付けた。
熊野権現は84代順徳帝建暦元年(1211年)勧請し、八幡宮は応仁年中(1467~1469年)、当所地頭本間氏が勧請した。三社共に慶長(1596~1615年)の頃に再興したという。

12世 法運

資法一人、光運という。吉祥寺、妙法寺を開基した。共に70代後冷泉帝天喜5年(1057年)の事である。旧記には、吉祥寺は五社権現の別当として、本間氏寺領三十五石を寄付。当城の西方の守護で、本尊は毘沙門天である。寺の旧地を今は塔主(たす)と言い、清士岡村にある。北方は一の宮、東方は新倉山、南方は大泊村滝谷権現で、これを当城四方の衛護として、特別な帰崇の霊地である云々と記してある。

13世 観理

法化一人広山といい、正覚院を開基。71代三条帝延久5年(1073年)の事である。

14世 運仙

資法二人、観禅と順覚で、観禅は円照寺、順覚は宮本坊を開基した。共に72代白川帝応徳元年(1084年)の事である。宮本坊が別当をしている、白山、神明、諏訪の三社共に64代円融帝天元2年(979年)に勧請したものである。

15世 道仙

法化二人、空覚と通観である。空覚は玉蔵寺開基、73代堀川帝寛治2年(1088年)の事である。通観は儀蔵寺、香傳坊を開基。共に75代崇徳帝天治2年(1125年)の事である。
この時菅原神社の御神体を、大河で隔てられているというので、この寺(弘仁寺)に移された。これにより、自然に当山の鎮守となって、それ以来御供米が天神川原より当寺に納められる事になったのである。

19世 光善

資法一人、善観と言う。地蔵院、龍水寺(今は千手院という)を開基。共に82代後鳥羽帝文治五年(1189年)の事である。

26世 甚照

資法二人、光道と智明である。光道は無量院(今は如意輪寺という)を開基し、智明は観正寺を開基。共に94代花園帝文保元年(1317年)の事である。

29世 見照

資法二人、照山と智賢である。照山は観音寺を開基、智賢は勝泉寺を開基。共に101代称光帝応永31年(1424年)の事である。観音寺は昔、安土山東福寺と言い、今の境内より七町程上に旧跡があり、本尊は大日如来である。応永の頃に寺を移し、中興すると共に寺号を改めたのである。

30世 弘道

この時、応永21年(1414年)七月、羽茂殿家老海老名弾正左衛門真国、東西二十七町、南北十八町境内と定め、寺田九千刈を寺領とした。これは別紙で残されている。
禁制の下馬札を寄付し、今土塀(道平)入口に札場という所があり、二本門の側に下馬松がある。またこの頃、羽茂殿ここを隠れ城として、新たに武器の倉を建て、それより新倉(あらくら)と呼ばれるようになったという。
寺田十王堂の仏像に、応永3年(1398年)新倉山弘仁寺禅蔵坊とある。また安永3年(1774年)編纂の縁起抜き書きには、「下馬松と呼ばれる古松があったが、二十年も前に大風に倒れ、朽ちてしまった」とある。

32世 良秀

中院法流開祖。この時、越後国西津(長岡市か)吉祥寺の慶尊より、中院の法流を良秀に相伝、この故に吉祥寺末と言っていたのである。
資法二人、報善と法泉である。報善は報恩寺(元の上の坊、今は宮本寺に合寺、薬師堂のみ残る)と下の坊(善明院)を開基、共に102代後花園帝宝徳3年(1451年)、また法泉は法乗坊を開基、同代寛正4年(1463年)の事である。

33世 真賢

この時、神宮寺は真賢の中興になったのである。これ以前は妻帯寺で、別当坊と呼ばれていた。文明2年(1480年)6月、大洪水により、諸書物、諸道具、寺共に流失した。旧跡は川東の下であった。真賢は度津山神宮寺と改め、今の社地に移して、清僧寺(妻帯しない寺)として建立した。103代後土御門帝文明2年の事である。
八幡宮は同4年(1472年)、羽茂殿本間氏が村上源氏の後胤である為に勧請、度津神社に相殿にしたのである。度津神社は、29代欽明帝五年(大化改新以前の為、西暦年確定できず)索盞鳴命の御子、五十猛命が降臨されたのである。

37世 良弁

時の祈願主本間対馬守高貞、天正元年(1573年)、当山を要害として改めて倉蔵を建て、兵糧・武具を納めた。

38世 真応

天正16年(1588年)6月中旬、本間対馬守、越後の景勝の為に落城した。当国も景勝の手に入り、天正17年(1589年)当寺の七十五石の寺領も取り上げられ、僧徒は去って行き、真応は大崎に隠住した。慶長十六年(1611年)5月27日、弘法大師尊像を造立した。(今の薬師如来像には慶長15年近江の仏師作とある)

39世 良慶

慶長年中(1592~1615年)大久保石見守に再訴、当寺境内東西二十一町、南北十町、田六千刈を許される。

41世 弁英

承応元年(1652年)3月14日、小比叡山が焼失した。当国小木御役の辻藤左衛門が公命に背き、辻一家当寺に入寺した。相川の寄せ手に敵対して住持快慶師弟六人、辻親子三人、主従十人が討死した。本坊も焼け、御朱印も焼失した。これにより欠所改易となり、寺領残らず公納となる。この時、弘仁寺住弁英、承応3年(1654年)東武(江戸)に上り再訴して本領の御朱印、前年および前々年の年貢までも頂戴した。本坊などは、以前と同じに建立した。この時江戸で、寺社奉行所より智積院へ仰せ遣わされ、弁英は本山三ヵ年で、蓮華峰寺へ住持を仰せ付けられた。この寺が本領に復し、かつ寺坊も建立できたのは、ひとえに弘仁寺弁英師の功である。ここに中興の一世と称する。特に両山兼帯で住職した。拠って公的には両寺の格は勝劣がないのである。

44世 秀応

薬師本尊、大日如来再興、寛文11年(1671年)、惜しいことに古作を彩色した。両界曼荼羅等旧画数幅を再修した。

弁英までの記録は、薬師の基座の内に小巻物に書き付けられていた。再興の時は、秀応がこれを記した。

45世 弁宥

この時当寺伽藍悉く焼失、時に天和3年(1683年)9月の事である。是から特に衰廃する事になった。薬師、大日、大師の像、八祖、両界その他の旧画、少々焼け残る。法流、古来の縁起等、残らず焼失した。

46世 宥応

この時、御検地有り、惜しい事に境内僅かに八百間に三百間に足らず。田漸く五町三反半納とされた。古来の山林、境内、大半御高入れとなる。この師、小川内真楽寺より当寺に移住して、焼失の寺坊を造立し、法流等を伝写した。

47世 弁空

この時、京都智積院末寺となる。蓮華峰寺実伝法印の取次で、宥鑁僧正より中性院流法流を当寺弁空に相伝して末寺となった。この年、当寺に三色を免許し、当寺を御朱印格にされた。これはひとえに、先年蓮華峰寺御朱印焼失退転の時に、当寺の弁英が再興したことによる。御朱印中興の功は大変なもので、これによって今度は当寺に三色を免許すると言われたのである。

48世 秀永 

本山13ヶ年。この師、宝永4年(1707年)滝平の地蔵院より入寺して、正徳2年(1712年)隠居、地蔵院を本住とする。当寺の興教大師は、この師が宝永5年(1708年)6月26日に造立したものである。

49世 弁融

この師、正徳2年(1712年)入寺、享保12年(1727年)10月21日隠居。赤泊禅長寺より当山に移住。京都智山に上り、宇治小幡の里薬師院に住し、当寺の為に多くの事相の秘記、灌頂の法具などを整えてくれた。又その前には、庫裏、天神宮殿を建立した。境内の山林鬱茂としているのは、偏にこの師の力である。また門前のしきたりや、門末の古法を明らかにしたのは、これ又この人である。末寺三ヶ寺ができた。禅長寺、神宮寺、地蔵院である。(享保19年(1734年)3月弘法大師九百年御遠忌に出仕、その時一条院会下で求めた七条袈裟が残されている)

50世 伝空

享保12年(1727年)10月21日入寺。赤泊禅長寺より移転して来た。寛延4年(1751年)10月、当山に隠居。弁融、弁空両師、五十余年山林を大切に守護し、今に林木が森々としているのは両師の力である。殊に伝空は、およそ六百両の金銭を貯蓄したという。護摩堂、三間に十間の長屋門を造立し、当山に伺堂金三十両を寄附し、更に三百両余りを遺金したという。院室兼帯(大覚寺無量光院)が出来たのも、偏にこの師の助力である。禅長寺も二十年余兼帯した。この時末寺が一つ出来た。延命院である。

51世 憲澄

寛延4年(1751年)10月21日、一ノ宮神宮寺より当寺へ入寺した。明和4年(1767年)9月、神宮寺に隠居した。この師は甚だ世財に富んでいた。一ノ宮のこの師、当山先師伝空は夫々、この国に類がない富僧であった。両師の事業は当寺にとって殊の外幸いな事であった。院室兼帯、伝法灌頂修行、この師成就した。又、天神の雨屋、客寮を造立した。入用金銭はおよそ山林五百貫文代余り売り払い、これでこれらを修造した。
この代に衣帯三色が二色に減少した。これに代わり院家兼帯の事が本山より仰せ付けられ、又この時御広間御礼席改まり、二色壇林の上席となった。網代乗物、対の挟箱等はこの師が求めた。遺金三十八両有ったという。この時、末寺四ヶ寺出来る。観音寺、儀蔵寺、遍照坊、林光坊である。

52世 融観

武州宝蔵寺にて寂。本山11ヶ年
明和4年9月禅長寺より当山に入寺、安永3年(1774年)9月12日禅長寺に隠居した。この師、庭が狭いので、広くする為に引地人夫およそ五千人が必要であり、莫大であった。長屋門を十間続けて造り、門先の石段など造り直した。全て入用金は、山林およそ四百貫文余り売り払ってこれに当てた。
この時、御公儀別觸れにされた。
安永4年(1775年)5月、霊地参詣に出国した。
この時、末寺、玉蔵寺が出来た。

53世 甚亮

本山前側席23ヶ年 中興22世と呼ぶ。
上山田村観音寺より、安永3年(1774年)9月12日入寺する。この時、正月御奉行所御札十五日とされた。洪鐘を造立した。
この時、末寺、円照寺、上の坊、正覚院、如意輪寺が出来た。

56世 日隆

真浦四郎平の出

57世 日勝

洛北清和院に移転。権僧正となる。

58世 弁盛

小立村八兵衛の出身。荒法師の異名を得、寺田の氏江元彦、木戸の橋詰新兵衛等と共に、仁王門を新築、他の堂悉く再建す。為に一時所払いとなる。

59世 日如

赤泊 田辺氏

62世 弁空

滝平菊池氏の出。権中講義、仮名宋仙。

63世 日幢

下黒山 藤井永三郎 仮名順明。

64世 日央

葛西周禎と親交あり、小野道風の書と言われるものを寄進さる。

65世 日政 

姓は茆原(ちはら)。権小僧正を遺贈される。

66世 敞道

千葉県君津郡小櫃村の出。智山一臘席、智山勧学院長及び小比叡山蓮華峰寺住職を経て当山に移住。智山集議、大僧正。廃仏毀釈後の仏教並びに寺院の復興に多大の功績あり。堂宇の茅葺の屋根を全て瓦に変える。昭和28年の事である。新倉山道を改修し、耕地整理を行い、自動車業、森林組合、自作農の育成など民業にも意を用い、この面にも功績大である。

67世 敞隆

大僧正。国文科一級教師(大学教授)の資格を持ち、羽茂高校国語科教師として地元子弟を育成。山林の復興に意を用い、寺領の大半に植林す。又、柿栽培にも努力、新倉地区振興の基となる。俳句を楽しみ、柿山と号し、「柿の花」の句集がある。

68世 敞舜

洪鐘を再建。仁王門を往時の位置に戻す。羽茂町教育長、同町会議員を経て平成7年から11年まで羽茂町長を務める。カルトピアセンター、ふすべ村、ケーブルテレビ局等の設立に尽力。