弘仁寺縁起
佐渡国弘仁寺の開基は人皇五十二代嵯峨天皇の御代、弘仁二年(811年)の事である。この年の三月、空海は帝の「夷狄を教化し霊地を開いて欲しい」との御勅願により、北国へ布教の旅に出たのである。
空海、御歳38、羽茂大石の浜に上がられたのは4月上旬のことで、川をしるべに北に上がり、尾平の里に至り水を乞うた。この尾平の里は応永の頃からは仮屋と呼ばれており、尾平権現のお宮がある。(今は草刈神社に合祀)
里人は「金臭い水だ」と言って、水を施さなかった。それ以来、その言葉の通り水が金臭くなって、このところには井戸がなくなった、と伝えられている。
これより東の坂を登り、久保の小太郎と言う者に会い、慳貪な里人の為に、この処に十一面観音を造立し、補陀落山普門寺(観音様の居られる山で誰でもが来られる処)と名付けられた。
今(記された当時1700年頃)、小太郎久保の堂と言い、鰐口に永正六年(1509年)普門寺とある。(鰐口はないが、今、筑法山又は久保の観音堂と呼ばれている)
また、ここを筑法(つくほう)坂と言うのは、空海がここで頬杖を突いて、里人教化の工夫をし、法を築こうとしたからであると言われている。その故にか、今、里人は温和勤勉の質を伝えている。
空海ここに暫く留まり、これより細道を辿って更に登ると、滝の傍らに小さな庵があり、啓道という行者が住んでいた。
空海が「どんな行をしておられるのか」と問うと、啓道は「特別な行ではない。常にこの滝に参籠して、お薬師様のご真言を誦して、国家安民を祈って来ましたが、風は順調で願い事はみな成就した」と言った。
空海は「それは素晴らしい事だ」と言われて、すぐにこの滝の傍らに護摩壇を造り、修法されると、瑞光が四方に輝き、神龍が水面に現れた。
この時、空海は祈誓して、「この近くに必ず霊地があるであろう。伽藍を建立しよう」ときめた。
辺りを見ると、その時、北の方に瑞雲が有ったので、その方へ尋ね登って行くと、化け物が現れて、道を通れなくしてしまった。
空海が暫く般若心経を誦し結界すると、邪魔していたものは去ってしまった。
このことから、今、心経山また心経坂(今は共に新京の字を当てる)と言うのである。
山頂に至って八方を見られると、九つの峰からなる山の景色は、あたかも八葉の蓮華の花のようであった。
九峰の主なるものは、東は入合(いりこ)やま、南は瀬尾(せのお)山、西は薬師山、北は松山である。
まことに霊地であった。
ここに於いて、空海、薬師三尊、胎蔵大日如来の像を刻み、小太郎を施主として伽藍を造立し、尊像を安置された。
この時、柏の木を以て彫刻されたので、今でも門前の家々では、薪等には柏の木を使わないと言われている。
又、鎮守として、青龍権現・厳島の明神(弁天様)を勧請した。今は池は荒れて、小さな嶋があるだけであるが、このところを嶋根と言っており、薬師の御手洗池である。
弘仁天皇(嵯峨天皇)の勅願である為、即ち年号を寺号とした。
啓道を御弟子として、造立を任せた。
ここで里人は、啓道に御利益があった事を聞いて、願い事のある物は、皆潔斎してこの滝に参籠することになり、願の叶う人が多い。今、入口を払い川(祓川)と言う。
滝壷は深く水底は計り難いと言われていたが、今は石が崩れ落ちて、淵はなくなっている。古くから旱魃の年には、この滝に雨を祈ると必ず雨が降った。
こんな事で啓道は伽藍を造営し、山道を開いて往き来をし易くし、蓮華山東光坊成就院弘仁寺と呼ぶことになったのである。
昔は十二坊あったと伝えられるが、戦国の頃から次第に門前の俗家になってしまい。復興することがなかった。惜しいことである。
当山に三つの滝がある。
第一は男女瀬(いもせ)の滝または水乞(みごい)の滝と言っていたが、今は弘法の滝と言う。ここには三つの不思議な言伝えがある、。
一つは、滝の傍ら(川の中)に腰掛け石と言う石があって、不浄の女人等が至れば、流水忽ち血水に変ると言う。
二つは、滝の傍らに庵の旧地があり、昔この地を田にしたが、不浄の女らが入ると、忽ちに数百の蛇が出た。これによって空地にし、今は当山に納めている。(滝御堂が建っている)
三つには、滝壷より一町ほど下の祓川と言うところまでの内で、不浄のものを洗えば、これまた前の様に蛇が出る事は、今でも一般の人の知るところである。
第二の滝は北の滝と言う。今は境外となって八笹(やさ)が滝と言っているが、ここにも言伝えがある。(記録はない)
第三の滝は南の滝と言い、これも今は境外となって、麻佐(まさ)が滝と呼ばれているが、これにも言伝えがある。(この記録もない)
(弘法大師を開祖とすることに、疑問を呈する人もいたらしく、古人は次の様に記している)
弘法大師北遊の事は、弘仁年中の伝記に見えず、偽説ではないかとの問がある。これには、甚だ局見であると答える。祖師滅後九百年余り、公の事は大概記録してあるが、細々な事柄は之を記していない。これに因って、その事跡の明らかでない事が多い。然しながら北国には旧跡も多く、また遊方記には「大師始め経を求めて足を発し、広く四方に求む。五畿に周遊し、七道を往復す。本朝三百余州の中、歳月深く行けどもなお日を新たにす。一人で歩き回り、至らざる処なし云々」とある。
殊に弘仁二年は、二月から六月まで勅務その外の御願行等は伝記に見えず、確かに北国へ行ったと思われる。
なお又楞伽(りょうが)経には、「初地の菩薩は百仏、世界に分身作仏す」と書かれている。
大師は既に三地の菩薩である。何でこれ(ここに来て開祖となった事)を疑うことがあろうか。
注)九百年御遠忌後、当山五十世伝空師、五十一世憲澄師の頃整理されたものと思われる。